昭和40年7月29日 朝の御理解


 神様のお心をお心として、というような事を申します。神様のお心を分からせてもらう。神様の心を悟らせてもらうと。そういう風に思わせます。それはどういう風に、分からせてもらい、どういう風に悟らせて頂くか。これは様々でございましょうけれども、中に私は、天地の親神様のお心の中に大変厳しい面、大変おやさしい面。母性愛的なまたは、性愛的な、そういう両面があるということですね。今日は、そこんところの、神様の心を分からせてもらうという事、悟らせてもらうと言うこと、そしてその、神様の心を心として自分の心の上に自分の人格の上に人と(?)の上にそれを身につけていくということ。

 ですからいうなら、陰陽とこうもうしますね。陰の面があると同時に陽の面もなからなければならない。いうなら、自分の心の中に、男と女が一緒になからなければならない。そういうようなところから、私は良い物が生まれて来ると思う。ね。ですから、そこん所を私は神様の思い、神様の心を分からせて頂くという事、そういう面にも心掛けさせて頂いて、果たして自分の内容に、そういう陰陽両面のところがあるだろうか、そういうところを一つ頂かせて頂かなければいけません。

 例えば、あー、小さい子供にでも慕われるような内容、そういういわばお父さん。子供達にでも慕われるお父さん。同時にお父さんがいいよなさるとですよと、例えば言われたら、一遍で泣く子も縮んでしまうような面、が、お父さんの内容になからなければいけないのじゃないだろうか。ね。問題はそのお父さん自体の内容なのです。ね、本当に優しいかと思うと、お父さんの一面を見てみると、麟としておられる。厳しい。やかましい言うばっかり、ただ、もう、目の中に入れても痛くないというように本当に馬鹿可愛がるに、可愛がるばっかり、ね。そういうようなものがですね私共の内容に足ろうていくようなおかげを頂くということはそのまま、えー、天地の親神様の心の中に、隠陽両面があり、母性的な、( ? )的な難い軟らかいという面があると言うことが分からせて頂いてそれがそのまま私共の人格の上にそれを頂いていくという、精進、努力が私はいると思う。ならそげんなろうと、怒る時はうんと怒ろうと優しい時にはばさりいっちょ可愛がろうと、これだけではいけないということ。自ずとそれが、それに備わってくるようにならなければならないと言う事だと思うのです。為にはやはり私はおもんですけれども、んー、人には思い切って寛大にならなければならない。そこに私は和らぎ喜ぶ心というものがです、ね、いかに大事であるかということを、ひとつ分かって頂きたい。でないと寛大になれない。ほんに、自分の心が有難いなあと、自分の心が有難いという時にはそれがそういう事になるのですね。いわゆる、神様をいつも心の中に頂いておかなければならないと言うこと。

 昨日は、竹陽会でございました。ですから、んー、いつもは客間をつかうのですけれども、もうとにかく、二階の客間の夏はもうほとんど使われないですよね。風通しが悪いわけです。もう蒸し風呂に入ったようにある。それで私はあの、今日はどうだろうか、楽室を開放して、私は(?)いってから、竹陽会の人たちに親先生、集まっても10名くらいのものですから、お願い(?)、そして昨日ここ風がとてもよく入りましたですから、涼しかったのです。それであの、んー私が思った事にそれでもやっぱりあの、んー、やはり、若い嫁さん達は若い嫁さん達で、誰に聞かせたくない本当に年輩の人達が集まってからいろんな、憂さ晴らしのような話し合いもあるだろうとこう私は思いましたから、やっぱり、こう絶対人が聞かんところがいいだろうとこう思うた。私の部屋をこちらの部屋はいくらか風が入るから、あの部屋を使うようにしたらどうかと私家内に申しました。それで、昨日何か、冬物を引っ張り出してから散らかして、とてもあんたもう、かたずけられる事ではありません。いっぱいひっちらかしてからとこういう。まあそうかというてなら、私の心の中には人、あー、使ってもらおうとこう思うておった。それから、久留米の光橋先生が丁度時間で見えておられましたから、( ? )冷たいものがあった(?)と私申しました。もう、あっちぞろぞろきよなっさるけんで一緒でよかろうでしょうもんと。なるほど、表から子供連れで子供連中が入っ(?)てきよった。

 もう、ぞろぞろきよなさるけんで一緒に、あげようちこう申した。なるほど家内がその(?)に休んでいるわけでもなからなければ、まあ、その、どうしておる訳でもない。したむなかからという訳でもないけれども、次から次へと追われておる、仕事に追われておりますから、まあ、あのそういう訳でございます。それがね、私あの普通の時だったら、「こん奴ばっかりは、いちいち俺の言うことに逆ろうちから」ちという事になるのでしょうけれどもね、昨日は思うたのです。そういう時には必ず神様を外しておる時ですね。俺の言う事をいっちょん聞かんと。( ? )例えばこういうような不平が出たり、不足が出たり、そういう近い言葉が出るときにはです、確かにそういう時です。自分の心がですなんとはなしに和らいでおる時、有難いとき。ね、それもそうね、それもそうねとこう聞かれんのです。そういうときのお父さんは素晴らしかろうと思うわけなんですよね、言うならばね。ところがそれが反対に仲が何時もそうであるかというと、お前ばっかりはいっちょん俺のいう事を聞かんと、いう時のほうが実をいうと強引ですけれども、そういう(?)程にいつも心に神様を向けてはいないという事になるんです。そういう時にはいうなら優しい、先生でありお父さんである時である。  

 自分の心の中に有難いと、御礼の申し上げられておる時、または、自分の心の中に相済まんという心で、お詫びをし続けておる時。そういう両面が、なからなければいけない。これは、私共もそうですけれども、皆さんどうでしょうか、家のお父さんは優しいだけで通っておる、内のお母さんはただ厳しいだけで通っておる。その辺がですね、本当にこう、はっきり、内容において( ? )いつか、妹が私に、こんなことをいった。もう、家の兄さんばっかりは絶対ごまかしが出来んち。金銭のことでも、自分が金銭、お金の数を読み取るとでも、めんどくさそうにしておったり、または、よう数えなかったりするように、( ? )ですと。もう何ヶ月も前の事をきちっともうそれこそもう、それこそきっちり覚えておると。ね、そういう時にはです、ね、自分の事に例えば甘木の初代ではないですけれども、自分の事に金を使う時にはです、一円の金を使うでも百円の金を使うような思いというところです。神様事に百円の金を使う時にはです、ね、いうなら、一円の金を使うような気持でとこう言うておる。そういう時には私はいつも私は忘れてしもうておる。(?)自分の事になっておる時には絶対に私は忘れません。それこそ、ごまかそうといってもごまかせるだんのこっちゃありません。

 昨日、おとといですね、だから昨日の晩です。久富重雄さんが、朝晩ああして、お参りになられます。晩は昨日の晩はいよいよもう本格的な夏となってまいりましたから、暑い時いつも、玉露を入れて、それを冷やしてやっておく、そして明日暑い時に、冷やし玉露ですね、冷たい美味しいお茶を飲んで頂こうというので、あの、時間をかけていわゆるお茶を入れられます。そして、小さいびんに入れて冷蔵庫にいれて頂いておる。それを初めて今年されました。ね。もちろんですから、それを楽しんで頂くと言うことももちろんですけれども、その、私は真心を頂こうと思う。昨日、私頂こうと思いました所が、頂いたところがどっこい、それがえらい色が黒いと思ったら麦茶です。玉露変じて麦茶になっておる訳なんです。いつのまにか。誰かがこぼすか、飲むかしておる訳なんです。誰に聞いても分からんのです。私その事を一日、休むまで、それを家内だけではありません、家族中の者にそれを私詮議するんです。詮議するというてそのまあ、攻め立てるという訳ではないですけれども、ましては、推理してみるわけですね。家内に聞かせて頂くと、確かに麦茶を冷やしてあった。けれども、それを私は( ? )持ってきて、それに入れてえー
その、残っておる麦茶だけを、そこに入れたとこう言う。重雄さんが入れてからでも、やっぱり( ? )であった。しかし( ? )二本入っておる。それを久富先生がわざわざ一生ビンを削って、その、玉露のほうにさしておられる。してみると家内がその、サイダーびんを(?)したから持って来たところまでは事実かもしれない、本当なのでしょうけれども、お茶を入れる時に、持ってこなければ玉露が少しばっかりですから、その上にいれたのではないかと、まあ私が推理するわけです。いいやそんな間違いはないとこういう。いろいろ聞いてみますとその、久富先生が栓をこうやって削ってした、栓のびんが横に入っておったビンがと、いよいよだんだんはっきりしてきた。してみるとこう誰かが( ? )ければならないというまあ、推理になってくる訳なんです。もう、あなた達ばっかりはたったそんなことばっかり、いわばうるさいやかましいとこういう訳なんです。

 だから私はいいて。ね、誰かが間違えて入れましたとか、溢しましたとか、( ? )私が飲んでしましましたとか。私は本当に(?)ないと思いました。(?)。いよいよ、久富さんがまた、私の真心が足りないからというて、作っていれておられますけれども、んな、私しゃっちがそれを飲まなんとか決してないです。私にはねそういう、自身があるんですよ。ね。それがです、有難いと思う内容とです、ね、そんな事では相済まんという内容とです、あるからそういう事になってくるんですよ。いうなら、人に寛大でなければならないはずなのに、私は一つも昨日は寛大ではないわけなんです。その場合は。ね。けれども、それが事信心である場合はそれを寛大にはされないんです。それが信心なのだから。それでその家内に私がお茶を出せとか、2階を掃除しろとかと、いう時には私はもう寛大以上の寛大です、向こうの心の気持になってみればそういうところもないです。もう全然そういうところに何にも無い、私の心に引っかかるものはないのですから。

 皆さん、こうやって、(?)私はこうやってお話をしております、たったそれだけの事なんですよ。天地乃親神様の心を心としてとか、天地乃親神様の心と自分の心の中にも、だんだん作っていくという事。男性的な人は女性的に。女性的な人は男性的なものをです、私共の心の内容として頂いていこうというのである。ね、それからしか、良いものは生まれて来ないと、男と女が一つになって、良いものが生まれてくるように、ね、(?)が合体してよいものが生まれて来るように、よい、おかげを頂かせて頂くためにです、そこん所を私は、本気で反省させて頂かなければいけない。ね。

 そこで、私いよいよ自分というものを掘り下げさせて頂いて、ね、自分というものを本当に掘り下げさせて頂いて、行く時に心から相済まんというものが、生まれてくるのじゃない。また、神様のためを思わせて頂く時にです、本当にお礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りませんというようなです、御礼心というものが、二つが自分の心の中に同居していくというような、頂けていくという、おかげを頂かなければならんと思う。人に寛大にしなければならないというて、寛大にするのではなく、自分の心の内容がです、有難いというときにはです、ね、いうなら女子供にでも慕われるような時なんです。ね。それこそ自分自身を見極めさせて頂いて、本当に自分のような、というようなギリギリのお詫びの生活をさして頂いておる時には、( ? )自分に対して厳しい時です。それこそ、側にもおれないような、ものがです、その人の雰囲気の中にあるようなおかげを頂かなければならないとこう思います。ね。それを中途半端な、ね、どちらつかずのような事ではです、それでは決して良いものは生まれないと私は思うのです。そのようなけじめがです、ね、私共いつも心の中に、かけさせていただいて、自分ではあーこういうときが、神様の心を心としておる時だなというような、それが時々自分の心の中に感じる事がある。

 いつでしたでしょうか、その秋山さんが、本当に私に話しておられる横で、それはだれでも同じですよね。もうニコニコしておる時は親先生素晴らしいばってん、もう、先生が腹書いておられる時は身が縮むごたるという意味の事を言っておられたときがあります。ねえ、私はそれはもう本当に側に寄り付かせないというのです。、こちらの身が縮むような思いのものでなからなければならないという事なんです。甘い考えでももっておる時にはです、厳しい態度をもってこちらがスーとならなければおられないというようなです、内容なんです。自分の感情で腹かいておる時だったらです、もう本当にいわば( ? )事になるだろうと私は思うのですね。そういうような私はところにです、焦点を置いての信心。それは神様の心を心としてというような事はもうほかにもう沢山あると思うでしょうけれども、自分の人格というものをいよいよ本当なものにして行く為にもです、そこん所を検討してみる。ね、本当に真剣なお礼が、真剣なお詫びが、人には寛大で自分には厳しいかといったような事がです、中にはそれが反対の人があります。自分が実に寛大なんです。ところが、もう人に対しては実に厳しいのです。そういうような事では、よい人格は生まれません、いや神様の心を心としてといったような事は出来やせんです。ですからせめてです、ね、その、人の足元ばっかり見える時には、人に対してから厳しい時です。ね、人じゃありません、人の足元じゃありません、本気で自分の足元をです、分からせて頂いて、自分にいよいよ厳しくならせてもらう、おのずとそういう信心から、人には寛大な心で接っしられるようなおかげが頂けるのではないかと思うのです。それが神様の心を心としてと自分のものに頂いていきよるという事にもなるのではないかと私は思うのです。                           おかげを頂かねばなりません。